こんにちは、ハクです。
毎週日曜日、河北新報2版に「書籍紹介」があります。
試しまして、こちらよりご紹介させて戴きます。
書籍数はあまりにも多いので「評」する紹介文がある本だけと致しました。
どうぞ、ぽちっと「折りたたみメニュー」で、ご覧くださいませ。
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大当たり!( ´,_ゝ`)プッ
宜しくお願い致します。
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【著者とひととき】
①『M』…人間は複雑な芸術作品
岩城 けいさん
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「Masato」と「Matt(マット)」は、父の転勤に伴い12歳でオーストラリアに移住した安藤真人の成長を追った青春小説だ。在豪30年の作家、岩城けいさんは、その完結編「M」を紡ぎ出した。出自や肌の色の違いなどから生じるアイデンティティーの葛藤が物語の核となっており、「家族関係から人種、言語、生まれ育ちと、いろいろな要素を含むので整理整頓に時間がかかった。読みやすくなるよう、なるべく素直に書いたつもり」と執筆を振り返る。
1作目「Masato」ではオーストラリアの公立小学校に転入したばかりの真人を描き、2作目「Matt」ではその5年後、現地の名門校の10年生になった姿を捉えた。「M」では、演劇の道に憧れを抱いていた真人が、メルボルンで大学卒業を目前に控え、堅実に銀行員を目指している。そんな彼は、マリオネットを制作するアビーと出会い、人形劇団に誘われる。
アビーはシドニー生まれのアルメニア系2世。「外見は白人」の彼女は、幼い頃から同郷男性との結婚を親に強いられ、アルメニア語の補習校に通われてきた。真人はそんな彼女に反発しながらも引かれていく。「2人は親がオーストラリアの人ではないという境遇で似ているけど、苦しみの種類が違う」と岩城さん。
相手への違和感が拭えず、言葉で傷つけ合う2人の姿は痛々しい。「互いに関心があって、よく見ているからもめるんだと思う。『嫌い』は『好き』と同じくらい大事な要素。何が嫌いかを知るのは自分を理解することにつながるので、しっかり認識した方がいい」
真人をはじめ、さまざまなルーツを持つ人物が躍動する3部作に「総力で」取り組んだ。「一人一人が複雑で、芸術作品です、人間は」。それぞれの特別な人生を丹念に描き切った作家の口から、実感に満ちた言葉がこぼれ出た。
(「M」は集英社刊・1815円)
【読 書】
②『図書館のお夜食』…要所に作家ゆかりの食
原田 ひ香(はらだ・ひか) 著
1970年、神奈川県生まれ。著書に「はじまらないティータイム」(すばる文学賞)「三千円の使い方」「ランチ酒」シリーズなど。
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評・阿古 真理(作 家)
東京郊外の木立に囲まれた「夜の図書館」は、亡くなった作家の蔵書を納める私設図書館だ。職員は「とても傷ついている人、疲れている人」「そして秘密を抱えている人」を、オーナーがオンラインで音声のみ、ボイスチェンジャーで声を変えて面接し選ぶ。
主人公は、東北の書店で契約社員としてブラックな働き方をさせられ、疲れ果てて夜の図書館に就職した20代の樋口乙葉。案内してくれたマネジャーの篠井弓弦は、とっつきにくいが、おちゃめな顔ものぞかせる。他に、クールビューティーで無口な受付女性、花柄のワンピースが似合う年配女性、以前は銀座の有名喫茶店でおいしいコーヒーを入れていたカフェスタッフの男性の木下などの同僚がいる。
個性的な彼らに囲まれ、住み込みで仕事をするうち、樋口は自分らしさを取り戻していく。来館者たちも個性的で、途中からミステリーのような事件も起きる。ファンタジックな設定も登場人物も、何だか脚本家の木皿泉や岡田恵和の世界をほうふつとさせる。そう遠くない先に、テレビドラマ化されるのではないだろうか。
本という世界の魅力をさまざまな角度から伝える本書の肝は、要所要所で登場する夜食。オーナーに指定された作家や作品に関わる料理を木下が再現し、賄いとして提供するのだ。厄介な来訪者に皆が振り回された夜は、向田邦子が妹に営ませた「ままや」の定食が出る。献立はニンジンをぎっしり炊き込んだオレンジ色のご飯、ジャガイモのポタージュ、レンコンのきんぴらとブリのあらの煮付け。終業前だがビールも一杯。ままやは女性が一人で外食しづらかった時代に入りやすいことを目指した店だった、と解説される。
物語の続きも気になるが、夜食の場面で紹介される作家の作品も気になって、主人公に倣ってその本にも手を伸ばしたくなる。箱を開けるとまた箱が入っているチャイニーズ・ボックスのように、読書の無限ループが続きそうな物語である。
(ポプラ社・1760円)
【読 書】
③『女人短歌 小さなるものの芽生えを、女性から奪うことなかれ』…精神の解放から深化へ
濱田美枝子(はまだ・みえこ) 著
1947年富山県生まれ。日本女子大学術研究員。共著に「祈り 上皇后・美智子さまと歌人・五島美代子」など。
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評・大辻 隆弘(歌 人)
1949(昭和24)年、女性歌人だけの季刊雑誌「女人短歌」が誕生した。この書は、男性優位の歌壇の中で女性たちを鼓舞したこの雑誌の創刊から廃刊までの経緯を詳細に追跡した労作である。
太平洋戦争中、「軍国の母」という大義名分の下で、自らの心を押し殺していた女性たちにとって、戦後の民主主義は精神的な解放を意味した。女性たちは「短歌創作の中に人間性を探求し、女性の自由と文化を確立する」という旗印の下、女性だけの短歌雑誌を創刊する。その理念は、瞬く間に多くの女性たちの賛同を得て、活動は熱気を帯びてゆく。
「女人短歌」は開かれた集団でもあった。折口信夫、室生犀星ら男性の批評を自らの糧として、女性たちは自己革新を続けてゆく。「女人短歌叢書」と銘打った会員の歌集を次々に世に送り出し、女性歌人の歌壇的な地位を確立していった。
が、文学集団は政党ではない。戦後民主主義の解放感が薄れ、女性歌人が歌壇に進出し始めた昭和30年代以降、「女人短歌」の活動の重点は、個々の歌人たちの作品の深化に移ってゆく。著者の濱田美枝子は、五島美代子を中心に、山田あき、生方たつゑ、長沢美津ら、個々の歌人の作風の深化を丁寧にあぶり出してゆく。
詰まるところ、創作は個人の営みであり、作品は個々の作家の自由意志の発露なのであろう。あらゆる文学集団がおしなべて短命に終わるのは、宣言や綱領などといった統制理念が、個人の自由意思を疎外してしまうからだ。
「女人短歌」の場合も例外ではない。葛原妙子、森岡貞香、中城ふみ子ら優れた歌人たちを輩出した後、「女人短歌」はその使命を終え、廃刊する。97(平成9)年のことであった。その解散までのプロセスを追う著者の視線も冷静でフェアである。
女性歌人全盛の今、その原点を見つめ直す貴重な論考である。
(書肆侃々房・2420円)
【読 書】
④『昭和歌謡と人文学の季節』…知が広げる歌謡の世界
井口 貢(いぐち・みつぐ) 著
滋賀県生まれ。同志社大教授。著書に「くらしのなかの文化・芸術・観光」「深掘り観光のススメ」など。
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評・三田 完(作 家)
「詞は凝縮し小さくしてあるが、空気にふれると大きくなることを予測しなければならい」
私が身近で仕事を手伝っていた作詞家・阿久悠が1985年8月の日記にぽつりとしるしたメモである。原稿用紙2枚ほどに収まる詞が、まず作曲家や歌手たちの想像力と衝突してふくらみ、さらに世に出て時として数万倍ものエネルギーに増大する。聴き手の胸の中で大きくふくらむ歌を作るべく、時代とともに変化する大衆の「飢餓」を読み取ろうと、阿久さんは努めた。
作詞をなりわいとする阿久さんの作法とは逆に、本書で著者は来し方耳にした昭和歌謡の数々を回想し、それらが今、なぜ自分の耳に残りつづけているのかを考える。あわせて、人生のおりおりに出会った人々や書籍などから受けた知的影響について語る。愛する歌たちをBGMにみずからが体験した思索の小道を再度歩み、あらためて令和の世を見つめる一冊だ。
文中「リベラルアーツ」という言葉がしばしば登場する。よく「一般教養」と訳されるそれは、すぐに使えるトリセツめいた知識ではない。一見無用に見える、しかし深い本質を秘めた智恵だ。たとえば、受験には役立たないが、のちのち教え子の胸によみがえる恩師の含蓄に富んだ余談。同様に歌の記憶も歳月とともに知を酵母に醸成される。若き日に聴いたボブ・ディランの反戦歌が、あらためてウクライナの戦況に重なるように。
さて、ふたたび阿久悠のこと。森進一が歌った「北の蛍」の詞が和泉式部の<ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る>という歌に通底すると、かつて山折哲雄氏が指摘した。その文章を読んだ阿久さんは生前何も語らなかったが、没後、大学の卒論テーマが和泉式部だったことがわかり、私は驚いた。阿久悠は和泉式部を胸に永く秘め、おそらくは無意識のうちに昭和歌謡として開花させた。これもまたリベラルアーツの一例であろうか。
(ナカニシヤ出版・2640円)
【読 書】
⑤『戦後空間史』…都市と建築の課題とは
戦後空間研究会(せんごくうかんけんきゅうかい) 編
大学教授や建築家らでつくる研究会。本書は青井哲人、市川紘司、内田祥士、中島直人、中谷礼仁の各氏らが執筆。
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評・初田 香成(工学院大准教授)
本書は、戦後日本の都市や建築を、政策や文化事象と結びつけ多角的に検証する。戦後とは豊かさを「あまねく行き渡らせ」た時代だった。その理念を象徴するのが「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した憲法25条だ。目標を曲がりなりにも達成した戦後は、しかし東日本大震災で矛盾を露呈させるなど転機を迎えている。
日本の住宅は、借家から持ち家の社会へと劇的に転換した。工業製品のように量を供給することが目指され、結果、期間で買い替える商品と化してしまった。しかし空き家の増えた現在、住宅を長く使い続ける選択肢が必要だ。
1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、戦後が作り出した空間への強烈なしっぺ返しだった。前者はそのもろさを見せつけ、後者はバブル景気により実世界から乖離した仮想世界の行き着き先を示していた。装飾や安らぎなど建築の役割を放棄したオウム真理教のサティアンはその象徴だった。
鍵になるのは転換をもたらした「量を担った技術」だろう。これほど人々の生活が等しく豊かになり、また国土の隅々まで風景が変わったことはなかった。その点でこの技術は相反する性格を持つ。行政や専門家の思惑を超えて広まった様子もうかがえ、われわれがいかに受容してきたかの解明も必要だ。例えば建物を永久的に使用可能と考える欧州の概念が日本で顧みられなかったのはなぜだろうか。
本書はこの他、50年代の芸術運動、革新自治体、建設業の海外援助、土地問題を多面的に論じ、漏れ落ちてしまった試みを丹念に拾う。著者らは、鉄筋コンクリート造マンションの住民による構造補強や同時代の芸術家の日常的な実践に可能性を見いだす。戦後空間は、われわれを依然として規定しているし、そこにこそ今後の作法も見いだせる。現在も生き続けるものとして日本の戦後に積極的に価値や課題を見いだそうとする本書の姿勢に共感する。
(筑摩書房・1980円)
【読 書】
⑥『心霊スポット考』…うさんくささを訪ねる
及川 祥平(おいかわ・しょうへい) 著
1983年、北海道生まれ。成城大准教授。専門は民俗学。著書に「偉人崇拝の民俗学」など。
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評・畑中 章宏(民俗学者)
日本の民俗学は「うさんくさい」ものやことに取り組んできた学問である。そもそもその発端に位置する柳田国男の「遠野物語」自体が、河童や天狗や座敷わらし、霊魂や神隠しなどを巡る、非合理的な出来事の採集録だった。
こうした学問的志向の延長線上で、現代の民俗学者が「心霊スポット」を扱うのは決して唐突なことではない。口コミも含めた各種のメディアを通して広まる「うさんくさい」情報の、今日的な伝承のありようを著者は丹念にたどっていくのだ。
「心霊スポット」は一般的に、テレビ番組や出版物、またその情報の背景にあり、スポットの源であるインターネットの掲示板などをメディアにしている。心霊スポットはまず、「幽霊との遭遇可能性への期待」の下で、「部分的で文脈依存的な空間への見付け」によって発生する場所だとされる。その上で、その場所に対する「訪問への促し」、言葉によって「評判」が高まることで「名所」化した場所だという。
心霊スポットと関係が深い「心霊写真」がカメラの普及(観光の大衆化)によって支えられていること、心霊スポット自体も電車やバスなどの交通機関ではたどり着きにくい場所にあり、自動車によるアクセスを前提としていることなど、情報の拡散と定着に、テクノロジーの発達が関係しているという指摘は非常に興味深い。
また、心霊スポットそのもの、あるいはそれを巡る物語が成立するにあたり、「霊感」を持つ者の関与が一定の役割を果たすことがある。ある目的地への同行者が「霊を感じる」とつぶやくことで、同伴者の気分が悪くなることがあるのだ。こうした霊感は、心霊スポットを広める重要な要素の一つだが、「たたり」を「霊感」したとき、従来の民間信仰どころかオカルトとすれすれになる。
「うさんくさい」場所と現象、その伝承の仕方を粘り強く掘り下げるという、民俗学正統の現在形にふれられる好著だ。
(アーツアンドクラフツ・3300円)
◇
※「読み楽しむ」のでしたら、こうすると安く、お薦めです!
どうぞ、詳細をご覧ください。
いかがでしょうか。今回も読みたいと思います。
その書籍の紹介文はなるほど、読みたくなるのはすごいものです。
これもアフィリエイトのための文章力(ライター?)の参考のために読み続けます。
では、失礼しました。
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