こんにちは、ハクです。
毎週日曜日、河北新報2版に「書籍紹介」があります。
試しまして、こちらよりご紹介させて戴きます。
書籍数はあまりにも多いので「評」する紹介文がある本だけと致しました。
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大当たり!( ´,_ゝ`)プッ
宜しくお願い致します。
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【著者とひととき】
①『資本主義の<その先>へ』…「手ごわさ」超える探究
大沢 真幸さん
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資本主義は通常、経済の仕組みとされる。心がけ一つで変えられそうだが、格差や気候変動は資本主義の下で深刻化し、止まる気配もない。「人間の経験全体を規定する手ごわいもの」と、社会学者の大沢真幸さんが徹底的に考え抜いた。
発想は実にユニーク。結論を先に言うと、資本主義はア「経験可能領域を拡大し、価値体系を普遍化するシステム」とみなされる。いわば人間のあらゆる活動に手を伸ばし、価値観を統一する仕組みとでもいえようか。難解だが、知的興奮に満ちた説が展開されてゆく。
まずは資本主義が価値を増殖させる仕組みを解説。例えばイノベーション(技術革新)は未来の価値体系を先取りして現在との差から利益を生み出し、その体系を普遍化する行為と捉えられる。インターネットが社会全体を大きく変えたことを思い返すと分かりやすいかもしれない。資本主義の強靭さはこのような革新性にあり「ある種の人間の本性を過剰に利用するシステム」と語る。
本書の試みは資本主義の「その先」にある社会を示すこと。そのため「差異を媒介にした連帯」を考える。例に挙がるのは、アフガニスタンで用水路整備に尽力した故中村哲さんだ。日本人でありながらアフガン人として苦しみ、行動する。「二律背反的」なその姿に、資本主義を超える普遍性の在り方を見つめた。
資本主義は全てを普遍化しようとするが、外部と内部の差異を前提とするため、真の普遍性には到達しようないという。むしろ「どんなに親密な関係の中にも差異はある。そのことこそ普遍的なのです」と力を込めた。
意外だが科学と小説も詳しく論じた。資本主義と連動し、普遍性を目指す営みだが、科学は資本の利益から独立し、小説を含む芸術には無償の喜びがあるなど「資本主義を超える部分がある」。
今回の探究は、資本主義を乗り越える「理論的な可能性」を示して終えた。実践は読者に任せたいという。「具体的に書くと逆に縛られて適切な行動を取れなくなる。基本的なイメージの提供を重視しました」と笑った。
(「資本主義の<その先>へ」は筑摩書房・2640円)
【読 書】
②『絵師金蔵 赤色浄土』…一代記超すスケール感
藤原緋沙子(ふじわら・ひさこ) 著
1947年高知県生まれ。2002年に作家デビュー。13年「隅田川御用帳」シリーズで歴史時代作家クラブ賞シリーズ賞を受賞。
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評・長井 裕子(浮世絵研究家)
「絵金」という名を聞いたことがあるだろうか。江戸末期から明治期にかけて土佐で活躍した絵師、金蔵のことだ。
狩野派の名を持つ絵師ではあるが、芝居絵びょうぶをはじめとする作品のあでやかな色彩や人物の表現は、むしろ浮世絵師という言葉の方が似つかわしい。おどろおどろしさまでも表現する力強い筆勢、血を連想させる鮮烈な赤色。その特徴的な絵を一目見たら、「絵金」の名を忘れることはないだろう。
本書は、その絵師の生涯を描いた小説である。
高地城下に髪結いの子として生まれた金蔵は、幼い頃より絵を好み、江戸に出て駿河台狩野の宗家に入門。わずか3年で免許皆伝に当たる一字拝領を受け、土佐に戻ると藩家老の御用絵師に登用されたが、贋作を作った疑いで職を解かれて城下追放に処されたとされる。
著者の藤原緋沙子氏は高知県生まれとのことで、金蔵に特別な思いを持たれていることは想像に難しくない。謎の多い絵師ではあるが、丁寧な取材に基づき、新たな金蔵像を築き上げている。
強烈な絵の印象からは、激しく、時には常軌を逸した振る舞いをする人物を想像しがちだが、著者の描く金蔵は、波瀾万丈の人生を送りながらも常に前向きで、人々から親しまれる、品格のある人物である。しかし、放浪中にはなじみの女性の元に居候するといった、人間臭い部分も持たせている。
金蔵の生きた幕末は、まさに激動期であった。彼の弟子の武市瑞山は土佐勤王党を率い、藩の重臣、吉田東洋を暗殺。その後、切腹する。大政奉還後の日本が内戦状態に陥る中、金蔵の息子の俊三郎は戦争に出征。血で血を洗うような時代だが、著者は絵金の「赤」を、人々の不安を払い落とす魔よけの色であり、平和を祈る絵師の究極の表現であると意味づけた。
幕末の日本の歴史を絡めた本書は、単に一人の絵師の一代記にとどまらない、スケールの大きな歴史時代小説である。
(祥伝社・1925円)
【読 書】
③『山の本棚』…奥深い紙上の山岳紀行
池内 紀(いけうち・おさむ) 著
1940年兵庫県生まれ、ドイツ文学者、エッセイスト。著書に「カフカ小説全集」(日本翻訳文化賞)など。2019年死去。
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評・平野恵理子(イラストレーター、エッセイスト)
書評集でこのタイトルなら「山の本の紹介なのね」と思って読み始めたら、そんな単純なハナシではなかった。もちろんどれもたしかに山にまつわる本ではあるが。
ただ、ぼんやりと山歩きの紀行や叙情的な随筆を取り上げているのかと思いきや。池内センセイはこちらの勝手な想像を軽々と超えて、縦横無尽に本棚から一冊抜き取っては、「こんな本いかが?」と教えてくれる。
ノンフィクションをはじめ、小説あり、句集あり、詩集もあれば写真集に絵本もある。山に川、島だけでなく、モダン建築、暮らしの道具に和菓子に関する本も。
登場する顔ぶれがまたバラエティーに富み、上田哲農、井伏鱒二、無着成恭(山形市出身)、ウェストンから南方熊楠、菅江真澄、植草甚一に有吉佐和子もエントリー。したがって、刊行時期も1900~2010年代と幅広い。
山に関する印象的な言葉が多数出てくる。「山びと」「林業」「狩り」「炭焼き」「きこり」。その山につくられてきた「径」「街道」「地図」。山を訪ねる人にとっての「山の幸」「湯治」「焚火」「森林浴」。読み進むうちに、紙の上の山旅が始まってくる。
「宗教」「霊山」「考古学」「妖怪」「放浪芸」。長きにわたる山と人との関係にも思いが及び、「火山」「満天の星」「雪形」には、そう簡単には人の手に負えないのが山だとも思い至る。
本文にはいっさいの章立てがなく、本のカテゴリー、著者名や本の刊行年代も関係なし、ランダムに153の書評が怒涛のように並んでいる。読んでいると、地図のない山に迷い込んだ気分。
読み始めたら、「分け入っても分け入っても」山の本だ。足元の花を見たり、突然眺望がひらけたり、ときには怖いガレ場を進むことも。一様ではない山歩きそのものの、奥深い書評集。読了後は、山のてっぺんから下りてきたときと同じような達成感、満足感を味わえる。
(山と渓谷社・1980円)
【読 書】
④『化け込み婦人記者奮闘記』…素性を隠して潜入ルポ
平山亜佐子(ひらやま・あさこ) 著
文筆家、挿話収集家。著書に「明治 大正 昭和 不良少女伝」など。
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評・斎藤美奈子(文芸評論家)
明治後期は職業婦人が続々と登場した時代だった。とはいえ職種は限られていたし、専門職へのハードルは高く、職を得たら得たで奇異な目で見られる。先輩たちの苦労は想像に余りある。
だが、どんなジャンルにもパイオニアはいる。本書の主役は、黎明期の新聞の女性記者たちだ。「化け込み」とは、今日でいう「なりすまし」に近い。記者という素性を隠して現場に入る潜入ルポの先駆けである。
特筆すべきは、会社の命令ではなく記者自らがそれを買って出たことだろう。最初の人物は「大阪時事新報」の記者だった下山京子。フランスの雑誌にこの種の記事があることを知って編集長に直談判。1907(明治40)年にはじまったのが「婦人行商日記 中京の家庭」の連載だった。輸入雑貨の行商人に化け、名流家庭から遊郭まで、いわくありげな家に潜り込んでは、そこで見聞きした話を書く。翌年には高級料亭の仲居になりすましたルポを連載、化け込み記事は一種のブームにまでなった。
男性記者による化け込み記事はそれ以前からあったものの、多くは貧民窟で生活するなどの社会派だった。一方、京子の記事は題材も筆致も娯楽色が強く、興味本位だと批判もされた。が、そもそも新聞記者の地位が低いうえ<号外に関係のない婦人記者>とやゆされた時代である。京子の記事は<婦人記者の正道であった名流婦人訪問記のいわばB面(裏面)>であり、活写された市井の人々の姿は圧巻。よくぞ書いてくれたり、だ。
本書にはほかにも中平文子ら数人の女性記者が登場する。この人たちに共通するのは類いまれなる好奇心とバイタリティーだ。女性史の中にこれまで埋もれていたのは、彼女ら自身が「書く人」で、しかも黒子に徹する記者だったせいかもしれない。独特の嗅覚で埋もれた歴史を発掘する名手ならではの快著。女性の社会進出の方法は、どっこい多彩なのだとあらためて教えられる。
(左右社・2200円)
【読 書】
⑤『言葉はいのちを救えるか?』…死が発する力強い言葉
岩永 直子(いわなが・なおこ) 著
1973年生まれ。読売新聞記者などを経て、「Buzz Feed Japan」で医療記事の執筆、編集を手掛ける。
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評・奥野 修司(ノンフィクション作家)
「どうして人はいつか死んでしまうのに生きるのだろう」と著者は書く。でも答えはない。もし答えられる言葉が見つかって共有できれば、死に向かう人の孤独感を和らげることができるのか。そんな問いを重ねつつ、著者は死の淵を見つめる人たちを訪ね歩く。
筋ジストロフィーという難病を抱えた兄弟は介助なしには生きられない。彼らは青空や桜の美しさを見て命を躍動させる。その感動を、わずかに動く指先でパソコンを操りながら、兄は絵を、弟は詩を紡ぐ。それは二人にとって生きる証しであり、人間らしく「人々の中で生きて死ぬこと」を望むが故なのだ。
多発性骨髄腫の写真家にとって死はお隣さんのような存在。それでも「痛い思いをしたくないし、苦しみたくない」。現実、痛みが取れないことはよくある。医師が適量の鎮静剤を投与し、最後まで眠ったまま過ごせるようになる「鎮静」もあるが、「医師のさじ加減」で決まるから不安が消えない。むしろ安楽死が認められて後に、その「権利を持つと本当に生きやすくなる」。その言葉にハッとさせられた。これまで安楽死の議論は、当事者の意識を無視してきたのではないか、と。
死が身近な人たちが素の自分をさらけ出す。おそらく著者の共感力のなせる業だろう。ただ気になるのは、子宮頸がんなどを引き起こすHPV接種後に体調不良を訴えた女性の証言だ。本人は「心因性の症状」という診断を肯定するが、それが事実でも、それだけでは重度の副作用で苦しんでいる多くの人に、誤ったメッセージを与えないだろうか。
それをおいても、ここには力強い言葉が乱舞する。たとえばある保護観察官は、頭のいい人は計画的に物事を考えられるが、路頭に迷った人間にそんな計算はできないとつぶやく。みんな自分を基準にものを言うが、それを苦痛に感じる人がいることを知るべきなのだ。生と死のはざまにいる人にどう向き合うべきか、改めて考えさせられた。
(晶文社・2090円)
【読 書】
⑥『日本一長く服役した男』…「わからん」と向き合う
NHK取材班 杉本宙矢・木村隆太(すぎもと・ちゅうや/きむら・りゅうたぱて) 著
(杉本)1989年埼玉県出身。NHK記者。(木村)1992年埼玉県出身。NHK記者。
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その男「A」は長袖の腕まくりの仕方を知らなかった。著者に「どうやってやるのか」と素朴に聞いた。なぜならAは長袖を自由にまくることのできない場所にいたのだ。そう、Aは今まで刑務所にいた。61年間も。
1956年に強盗殺人事件を起こし、無期懲役刑となったAは2019年、熊本刑務所を仮釈放で出所する。このときAはドキュメンタリー番組で取り上げようとNHKの取材チームが組まれる。その取材の様子を克明に追ったのが本書。スタッフ内でのぶつかり合いも隠さず書く。その態度は好ましい。
脚本家である評者も、取材をして物語を作ることが多い。取材をしながら、どういう展開や落としどころにしようか、常に考えて話を聞く。それはドキュメンタリー番組でも同じらしい。むしろ「そのまま」が撮れてしまうという意味で、フィクションより、さらに完成形を意識しながらカメラを回しているようだ。
「自由がまだ、わからん」。仮釈放された直後にAはそう言った。その言葉はAの心のどの部分から出ているのか、取材班はつかむことができない。口癖は「わからん」。罪の悔い、61年の刑務所生活の意味を語るなら番組作りは容易だが、現実はそうではなかった。
Aは「罪の意識」があるといえるのか。いったい番組でAの何を描けるのか。取材班は悩む。あなたなら、Aの思いをどう解釈しますか?
本書はそんな問いを読者に突きつける。事件当時の時代背景。被害者家族のその後、仮釈放制度の問題点。高齢化した受刑者にとっての服役の意味。出所した彼らを受け入れる人々…。それらを手掛かりに、読者はもう一人の取材班かのように、自分の言葉でAと対峙しなくてはならない。
では評者だったらAをどう描くだろうか。視点は「不自由」だ。ただしそれは受刑期間だけを意味しない。Aの人生そのものだ。
(イースト・プレス・1980円)
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※「読み楽しむ」のでしたら、こうすると安く、お薦めです!
どうぞ、詳細をご覧ください。
いかがでしょうか。今回も読みたいと思います。
その書籍の紹介文はなるほど、読みたくなるのはすごいものです。
これもアフィリエイトのための文章力(ライター?)の参考のために読み続けます。
では、失礼しました。
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